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ショートストーリー
このコーナーでは、番外編的なショートストーリーを掲載しています。
斯波、大日方、真山の3人は、それぞれの視点で本編物語が始まる少し前の話。
楊は和真視点でエンディング前の隙間の話、泉沢はエンディング後の話+αです。
※楊・泉沢についてはネタバレを含みますのでご理解の上ご覧ください。
斯波編
ショートストーリー 斯波編
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「斯波くん、おはよう!」
後ろからかけられた声だが、その相手を間違える訳もない。
「おはようございます。美咲先生」
振り向いた僕は、笑顔で応じた。
ここは、とあるビルの5階にある、太極拳団体の本部事務局だ。
彼女は仲里美咲。
僕の所属する太極拳団体の創始者であり代表者。
そして、僕の唯一の上司であり、さらに言うと神のごとく信奉している人でもある。
上司を名前で呼ぶのも妙な話ではあるが、彼女から名前で
呼ぶよう言われて仕方なくというのがそもそもの始まりだ。
団体内でも彼女に近い立場にいる人間は、皆名前で呼ばされている。
「ちょっといいかな。話があるんだけど」
返事をして、デスクについた彼女のそばに立つ。
「あのね、例の中国行きの話だけど」
「はい、恩師のお見舞いの件ですね」
彼女が中国で世話になったという太極拳の師に当たる人が、病を得て
臥せっているという話が伝わってきたのが2・3日前のことだった。
当人は電話のない場所に住んでいるらしく(どういう所なのだろう?)
直接具合を聞くことができないのだそうだ。
話が伝わってきたというのも、人づてに聞いた話が手紙で来たと言う
何やら曖昧なものだった。
「来月1ヶ月間、行ってくることに決めたから」
「1ヶ月ですか」
「長い間留守にすることになって悪いけど、場所が山奥だから帰って
くるまで何日かかるか読めなくて」
「分かりました。じゃあ、教室のスケジュール調整を…」
「ううん。それは私がやるわ。皆への説明や代理指導者の割り振りも。
まだ時間あるしね。斯波くんに頼みたいのは、もっとプライベートな
ことなのよ」
「?」
「和真を置いていくから、何かあったら相談に乗ってやって欲しいの」
和真くんは美咲先生の一人息子で、現在大学2年生。
よく知っている間柄だ。
僕は美咲先生の門下になって以来、結構な頻度で仲里家には入り浸っていた。
団体創立当時の美咲先生は多忙を極めていて、夫である仁志氏はなぜか
家にいないことが多かったため、和真くんの遊び相手を引き受けていたのだ。
和真くんは今も僕が遊んでくれたと思っていると思うが、当時の僕は
家庭の事情で家にいたくなかったので、仲里家に避難させてもらっていた
と言うのが正しい。世話になっていたのは、僕の方だった…。
「あの子も成人したし、一人で生活できないこともないけど、親としては
子供のこと心配じゃない。身近にいて頼りになる大人っていうと、やっぱり
斯波くんなのよね」
「僕で構わないのなら、喜んでお役に立ちますが」
「ホント? よかった。これで一安心」
「和真くんはしっかりしてますから、何かあるわけもないとは思いますけど」
「そうだといいんだけどね。あの子、カッとなることあるし」
「そうですか?」
「斯波くんの前では猫かぶってんのよ」
「……僕は信用されていないと?」
「逆、逆! 大好きなお兄ちゃんの前で無様な自分を見せたくないんでしょ。
小さい子供の頃からの付き合いなんだし、さんざん無様なとこ見られてる
くせにねぇ」
美咲先生はコロコロと笑っている。
僕は内心穏やかではなかった。今の発言には、突っ込みたいところが色々あるが…。
「和真も、斯波くんがいると心強いって言ってたし」
「そう…、ですか」
結局、どこにも突っ込めなかった。
**********
美咲先生の中国行きの準備は順調に進み、7月の終わりに機上の人となった。
和真くんは、自宅を兼ねている茶館の店番を引き受けたそうで、ほとんど家にいる。
僕は仮後見人という大義名分の下に、時々店に顔を出して和真くんの話し相手に
なっていた(何しろあまり人の来ない店なのだ)
このまま、何事もなく8月が終わるだろうとその時は思っていた。
しかし、一本の電話がそれを裏切った。
時間は深夜だった。
『…斯波さん。どうしよう、大変なことになっちゃった…』
「和真くん? どうしたんですか、大変なことって?」
『ここから出て行かなきゃならなくなるかもしれないよ。僕…』
「何があったんです? 落ち着いて。今からそっちへ行きますから」
『えっ…。ちょ、ちょっと待って!』
和真くんは、ようやくそこで我に返ったようだった。
『ごめんなさい。僕が決めたことなのに…。こんなこと斯波さんに言っても
仕方なかった』
「そんなことはありません。僕は君が困ったら助けるように言われてます。
今、緊急にどうにかしなければならないトラブルではないんですね?」
『うん』
「明日の朝そちらに顔を出します。その時に話してくれますね」
『…うん』
「とにかく、休んで頭の中を整理しておいてください。大丈夫ですよ。
僕がついてますから」
『斯波さん…。ありがとう』
「どういたしまして。それでは、おやすみなさい」
一体何が起こったというのだろう。
家にいられなくなるとは…。
心配し始めればきりがないので、僕は思考を中断することにした。
寝不足では彼によいアドバイスも与えられないだろう。
僕が力になれる事態であるよう祈りつつ、布団をかぶった。
斯波編END
大日方編
ショートストーリー 大日方編
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碁盤の上の白、黒、白、黒、黒、黒、黒…。
「参りましたっ」
目の前で石像のように固まっていた男が深々と頭を下げた。
薄くなった頭頂部が雲間からのぞく月を思わせる。
「いやー、やっぱりセンセイはお強い。私なんかまだまだですなぁ」
男は照れ笑いを浮かべながら、せっせと折りたたみ式の碁盤の上の碁石を片付け
始めた。
俺は碁打ちではないし『センセイ』とやらでもない。
さらに、ここは碁会所でもない。
喫茶店だ。
メニューは中国茶のみという変わった店だが、一度茶を注文すれば、延々居続けても
文句は言われないし、お湯は無料だから、出がらしになるまで飲み放題。
さらに新聞も週刊誌も読み放題。
おまけにクーラーが効いていて涼しい。
非常に都合のよい店だった。
たまに他の客から囲碁だの将棋だのの相手をさせられるが、暇つぶしには丁度よかった。
俺は卓上の電気ポットを取り上げると、急須に湯を足した。
「センセイ、今日は何を飲んでいらっしゃるんで?」
「君山銀針」
「ほう。じゃ、俺も同じのもらおうかな。和真くん、俺にセンセイと同じのちょう
だい」
「はい?」
カウンターの向こうで、居眠りしていたのか、内職していたのか、臨時店主の青年が、
はじかれたように顔を上げた。
「ええと…」
俺が何を注文したか忘れたらしい。
「センセイ、何でしたっけ?」
「白亳銀針」
「はいはい。『はくごうぎんしん』だってー」
「はーい」
違う銘柄を言ったのに、目の前の男も、青年も、全く不思議に思っていないようだ。
頭が悪いというより、関心がないのだ。
どれでも、そんなに違わないだろう、と。
俺自身、茶が銘柄によってこれほど味わいが違うというのはここに来て知った。
小さい店だが、置いてある茶葉は極上品なのだ。
たまたま遠出した先で、同じような喫茶店を見つけて入った時に、この店との差を
思い知らされて愕然としたものだ。
以来、この手の店を見かければ入ってみるし、本も読んだ。
今や中国茶についてはそれなりの知識がある。
この店の本当の店主は旅行中だとかで不在なのだが、その店主が特別中国茶について
造詣が深いという訳ではないらしい。店主自身は銘柄や味の差についてはまったく
無頓着だからだ。
ところが、本当なら流通に乗らないような貴重な茶葉が平気で入荷することがある。
中国の茶園に知人が多いらしく『友達』だから分けてくれたものだとか。
実際、頻繁に中国へは行っているようだ。
ただし、目的は茶ではなく、白黒の獣…パンダだという話は、他の客から聞いた。
とにかく、俺はこの店に入り浸るのが気に入っていた。
が、しかし。
「ふー、暑い暑い。あ、センセイ! また、いらしてたんですか」
「……」
新たな客が入り口においてある新聞を取って、バタバタ仰ぎながらこちらへやってきた。
囲碁オヤジのせいで、俺はすっかり『センセイ』だ。
「暑い時こそ、熱いものがいいんだよね。あれ、なんだったけかな。俺がこの前
頼んだやつ。ね、センセイ」
「何故、俺に聞く」
「いや、和真くんよりセンセイの方が詳しいし、ねえ」
「はい、お世話になってます。へへ」
話を振られた囲碁オヤジも頷いている。クソ。
「凍頂烏龍茶だ」
「そうそう、それだ! 和真くん『とーちょーうーろん』ね」
「はーい」
「そういえば、仁志さんは、まだ帰らないんだね」
「なんだかひと月くらい空けるって言ってたよ」
「そりゃまた遠出だな」
店主は少なくとも客の頼んだ茶ぐらいは覚えていた…、と思う。
こんな状況が、あと1ヶ月近く続くと思うと、ため息しか出ない。
だからといって、他所へ行こうとまでは思わないが。
やがて、店の中の客は俺だけになった。
日差しもだいぶ傾いてきているが、蒸し風呂のような自分の部屋に帰るには
早そうだった。
ドアベルの音がして、また一人客がやってきたようだ。
「こんにちは、和真くん」
「あ、斯波さん!」
カウンターの中の青年は、みるみる笑顔になって立ち上がった。
入ってきた男は、知り合いのようだ。
かなり親しげに話をしている。
カウンター席に座ったその男からは、奥の窓際に座っている俺は見えないだろう。
「いかがです?」
「相変わらずだよー。ヒマでヒマで」
ヒマだったら、茶葉の名前ぐらい覚えろと言いたい。
「何かもらいましょうか。君のお勧めは何ですか?」
「えっ? ええと……」
思いっきり言葉に詰まって、青年はすがるようにこちらを見た。
俺はそっぽを向いた。
「ごめん。良く分かんない」
「しょうがないですねぇ。じゃ、烏龍茶。何でもいいです」
「はい」
青年は、さすがにしゅんとして準備を始めた。
客の男がちょっとこちらに目をやったけれど、俺は空気のふりをしてやりすごした。
何故俺がダメダメな臨時店主に協力してやらなければならないのか。
理由がなかった。
客なのに、他の客の面倒まで見ていられるかと思う。
しかし。
それでいいのか?と心のどこかで声がする。
言葉が足りない。
動くことを億劫がる。
さんざん周囲から言われ続けてきたことだ。
なんだか嫌なことまで思い出しそうになり、頭を振って考えを中断した。
理由がないことを理由にして、心の声に蓋をして。
俺は最後の一杯を飲むために電気ポットを取り上げた。
大日方編END
真山編
ショートストーリー 真山編
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携帯電話はつながらない。
何度やっても同じだった。
かけ始めてから、そろそろ1日たつ。
電源が入っていないのか、電波の届かないところにいるのか…。
どうやら電波の届かないところにいるという可能性の方が高そうだった。
あの、おっちゃんのことだ。
遠くへ旅行にでも行ってしまったに違いない。
となると、電話する前に家を飛び出してきた自分は、いかにも間抜けだ。
それなりに預金は下ろしてきたが、さらに引き出せば居場所を知らせることになる。
電車やバスなど公共機関を使うのはためらわれた。
タクシーなど言語道断だ。
ホテルにも泊まれない。
おそらく、すでにあらゆる方面に手配がされているだろう。
家出の経験は1度や2度ではない。
そのたびに易々と連れ戻されていれば、用心深くなるというものだ。
俺は公園の木陰を見つけて、芝生の上に座り込んだ。
ポケットから名刺を取り出す。
ずっとポケットに突っ込んでいたから、折れ曲がってよれよれになっていた。
『遊遊茶館店主 仲里仁志』の文字。
携帯電話番号。
その下に経営しているという店の住所が書いてあったのだけれど、うっかり濡らしてしまって
読めなくなっていた。
仕方なくうろ覚えの町名をたよりに、ドブネズミみたいにこそこそと歩きつつ、ようやく
その近くまで来た…、ハズだ。
おっちゃんは中国茶の専門店をやっていると言っていた。
赤い提灯の下がった目立つ店だと。
そして、訪ねてくれば雇ってやるとも言ってくれた。
たぶん、おっちゃんはいない。
でも、引き返すことはできなかった。
少なくとも、自分と折り合いがつくまでは、家には帰りたくなかった。
頼れる先は、おっちゃんの家しかない。屁理屈をこねてでも居座るしかないのだ。
店だから、そう何日も留守にする訳はないだろう。
そう信じて俺は足を進めた。
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暑い。
アスファルトの照り返しで、肌がジリジリ焦げるような気がする。
空になったスポーツドリンクのペットボトルをゴミ箱に投げ捨てた。
通行人を捕まえては、茶館の場所を聞いているけれど、一向に情報は得られない。
このままでは、また野宿する事になってしまう。
昨日は体のあちこちを蚊にさされて、ろくに寝られなかった。
歯を食いしばって前に進む。
と、数メートル先のビルから男が出てきた。
このクソ暑いのに、黒い長袖のタートルネックを着ている。
思わず目を伏せたら、そいつの足下は素足に便所下駄だった。
全くワケが分からない。
俺は、どけと言わんばかりにそいつに道を尋ねた。
男は少し考えてから、
「お前、全く見当違いの所にいるぞ」
そう言った。
「え!? 知ってんの?」
男は店の場所を教えてくれた。
ここの場所と、イメージは似ているけれど全然違う町名だった。
なんだか、どっと疲れが押し寄せてきた。
「…どうも」
「その店の茶は美味いよ」
「へえ」
「じゃあな」
男はカラコロと下駄の音をさせて去って行った。
それにしても、よく偶然にこの店を知っている人物に会えたものだと思う。
何か見えない力が後押ししてくれているのかもしれない…。
そう考えれば、少しは気力を取り戻せそうだった。
とにかく、場所が分かったのはありがたい。目指す場所は遠かったけれど。
俺は、公園の木陰で仮眠を取ると歩き始めた。
道に迷いながら夜通し歩いて、やっとその店を見つけたのは翌日の朝になってからだった。
もう少し、あと少しでたどり着く。
あと、少しで…
真山編END
楊編
ショートストーリー 楊編
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『茶芸対決 負けたら立ち退き』
茶芸なんてできないくせに、そんな途方もない勝負を勢いで受けてしまい、準備に奔走した8月。
周囲の人たちの協力もあって、なんとか『茶芸対決』には勝利することができた。
9月になって夏休みだった大学も始まり、いつもの日常がもどってくる、はずだった…。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
講義が終わって帰ろうと校門へ向かうと、なぜか人が集まっている。
黄色い声をあげている女の子たちのグループ。ヒソヒソ情報交換をしているグループ。
その先に、賑やかな人だかりがある。
中心には頭一つ飛び抜けて背が高い人物。眼鏡に華やかな色の中国服。
テレビの露出も多く最近人気者になっている台湾からの客人。楊尚栄さんだった。
日本での用事は済んだはずで、とっくに帰国しているはずの人が未だに日本に留まっている。
実は今、最も会いたくない人だ。
「………」
回れ右をして別の帰り道をたどりたかったが、残念ながら校門は一カ所しかない。
あとは気づかない振りをして通り過ぎるしか…
正面に向き直ると、楊さんとしっかり目があってしまった。
楊さんを取り囲んでいた学生たちも、視線を追ってこちらを振り向く。
僕は慌てて校門を出た。
後ろからは、再び賑やかな話し声が続いていた。
楊さんが大学に来る用事といえば、僕に会うことしか思いつかないが、声もかけられずにあっさり通り過ぎることができたのは意外だった。
あそこで下手に話しかけられて、他の学生に大騒ぎされたりするのは、とてもうれしくないので、ありがたいことではあったが。
では、何のためにあそこへ来ていたのだろう?
そんなことを考えながら最寄り駅までやってきた。
階段を上がろうとすると車のクラクションが鳴った。
見ると、止まっていたのは黒塗りの乗用車。側に楊さんが立っている。
車で来ていたようだ。駅まで歩いていた自分はいつのまにか追い抜かされていたらしい。
「和真くん!」
にこにこしながら、そう呼んでしきりに手招きをする。
周囲の目も気になって、側に行くしかなかった。
「どうしたんですか…」
「はい。どうぞ乗ってください」
「僕、台湾には行きませんけど」
「いいえ。食事に行くのおさそいです」
「はぁ」
茶芸対決後。
僕は台湾でいくつも茶芸館を持っているという楊さんから助手になるよう誘われた。
正確には『伴侶になってください!』と言われた訳だが…。
危うく台湾へ連行されそうになったけれど、両親の不在中に黙って外国になんか行けないと言い張って、難を逃れた。
その両親も、昨日無事に帰国した。
楊さんのことは、まだ言っていない。もちろん楊さんにも何も言っていない。
「ぜひお願いします」
楊さんはあくまでにこやか。あくまで丁寧。
「……」
この際、助手の件をきっぱりと断っておくのもいいかもしれない。
だから僕はついて行くことにした。
運転手付きの車に乗り込んで、向かった先はフランス料理の店だった。
「この店は、先日テレビ局の人に連れてきてもらいました。大変美味しかったです。さ、どうぞ、どうぞ」
まるで自分の家のように案内する。
席に着くと、さっさとコース料理を注文し、僕には来日してからこれまでの話を面白おかしく聞かせてくれた。
間が持たないような沈黙が訪れないのはありがたいが、おかげで断りの言葉を話すチャンスもない。
やがてコース料理も終わりに近づき、デザートが出された。
「楊さん、あの…」
「和真くん、もう1件よいですか?」
「え? …はい」
遮るように言われて従うしかない。
楊さんには、僕が何を考えているのかすっかり見透かされているような気がする。
すぐに店を出て、向かったのは中華な店構えの建物。
茶器販売と茶館が併設されている店だった。
「ここは初めて来ました。評判はよい店だそうです」
「そうですか…」
席へ案内され、やがて茶芸の道具が用意された。
茶芸は先月さんざん練習したから、いきなり道具をだされたって動じないぞ。
「お店の人にお勧めのお茶を頼んでおきました。楽しみですね。さ、どうぞ」
言われてお茶を淹れてみる。
あまり香りが立ってこない。
不思議に思って、注いだお茶を口に含む。
「……」
鉄観音…かな。飲み込むと、舌に嫌な後味が残った。
鼻に抜ける香りも作り物のような感じで、心地よくない。
にこにこしながらこちらを見ていた楊さんは僕の様子を見ると、ふっと真顔になった。
そして、鮮やかな手つきで茶を淹れ始めた。
一口すすって、すぐに席を立ってしまった。
一人取り残されて。お茶も飲む気にならず、席についたままぼんやりしていた。
うちで飲むお茶の方がよっぽどまし、そんなことを考えながら。
ほどなく楊さんがもどってきた。
「和真くん。出ましょう」
そう言って、僕を連れて店を出た。
表に待っていた車に乗り込んで走らせる。
「あの、どこへ…」
「すみませんでした」
「?」
「先ほど出てきたお茶をつくった茶園は、よくない噂のあるところでした」
「えっ…」
「最近経営者が変わっているんです。お店の人は知らないようでした。まさかとは思ったんですが、人気の店でもこんなことがあるとは。本当は君に楽しんでもらうつもりだったのに、残念です」
楊さんの顔に、いつもの笑顔がなかった。
落ち着かない。何とか調子をもどしてもらいたくて、努めて明るくふるまう。
「あー、全然問題ないです。僕、自宅以外の茶館には入ったことなかったので。とっても面白かったです!」
「……」
「それから、その前に連れて行ってもらったフレンチのお店の料理も、すっごく美味しかったです。あんなコース料理始めて食べました。ありがとうござました!」
「……」
「ええと。それから…」
「ありがとう。大丈夫ですよ、和真くん」
逆に気を使われてしまった。
「本当は、今日はお別れのつもりでつきあってもらったのですが、気が変わりました」
「はい?」
「いまの店で、はっきり分かったことですが。君は舌が正直…、というか正確なんですね」
「?」
「今まで良いお茶しか口にしていないからでしょう。すばらしいことです。私も自分の舌には自信がありますが、絶対間違わないとは言いません。人間ですから」
「……」
「一人では不安です。だからそばにいて私を支えてくれる人がほしいのです。本当においしいお茶を知っている、お茶が大好きな人物に」
「あの! 正直に言いますけど、僕はお茶が大好きな訳じゃありません。今まで茶館の店番をしてきましたけど、押しつけられて仕方なくやっていたし。進路も体育大です。茶館は、別にどうでもいいって思ってたし…」
「でも、今は違うでしょう?」
「あ…」
「お茶が嫌いな人が、あんなパフォーマンスをできるようにはなりません。女装までして、ね」
「あれはその…」
「対決の時の君はとてもチャーミングでした…」
うっとりと言われて、もう赤面するしかない。
「いやでも! 台湾にもすばらしい人材がいるんじゃ…」
「私は、伴侶にするなら可愛い人!と決めているのです。君です! 君は正直だし、優しくてとても可愛い!」
「!! か、可愛いって。僕、男だし。伴侶とか、なれません!」
「なぜですか? 男だろうと女だろうと関係ありません。ずっと側にいて私のことを支えてくれる人物、つまり伴侶です。何か間違っていますか?」
「ええと…」
違っていない、ような気がする。けれどなんだか違うような気も…
「和真くんは私のことが嫌いですか?」
「え? そんなことは…ない、ですけど」
楊さんの茶芸は見事だったし、物腰は柔らかで気配り満点の紳士だ。人として尊敬に値する。
それは間違いない、が…。
「それなら、まず観光しに台湾へ来てください。ね? 色々見るところもありますよ。本場の茶館に行ってみたいと思いませんか?」
「それは…」
興味がある。すごく。
「いいでしょう?」
「そうですね。観光なら、まあ…」
「はい、決まりです。空港へ行ってください」
楊さんが突然運転手の人に告げた。
「は!? 空港って」
「問題ないです」
楊さんの手には日本国のパスポートが。僕の?
「私は今日、君のご両親に会ってきました。お父さん、楽しい方ですね。色々なお話を聞かせてもらいました。それから、君の台湾行きも賛成してくれて、パスポートを預けてくれました」
「父さん! なに勝手にっ…」
「君にお返しすればいいと思っていたんですが。持っててよかったです」
「ちょ…、ちょっと待ってください。僕、学校が」
「休学届けを出せばいいでしょう」
「そんな!」
「何も心配いりません。ちょうどいい飛行機もありますよ。よかったですね」
「いきなりすぎです、楊さんっ!!」
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
そして。
短期滞在のはずが長期滞在になり……。
言っていた通り、楊さんはいつも僕を側においている。
言葉が分からなくて困ることも多いけれど、熱心に教えてくれるから少しずつ分かるようになってきた。
伴侶って、本気かな…。
新しく届いた茶葉をチェックしている楊さんを見つめる。
楊さんは、視線に気づいて顔を上げた。
「和真」
「?」
「北京語がマスターできたら、一緒にテレビに出ましょうね! 皆に和真の魅力を知ってもらうんです」
とてもかなわない。
明るく前向きで、あふれるほどの愛情を注いでくれる人。
この人の側にいられるなら、きっとどの国の空の下にいても幸せなのかもしれない。
楊編END
泉沢編
ショートストーリー 泉沢編
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時間は午前2時を回っていた。
暗い部屋の中で、デジタル時計の表示だけが、はっきりと見えている。
サイドボードに置いていたミネラルウオーターを、少し口にふくんだ。
最近、また眠りが浅くなった。
どうしても欲しかった人を、強引な方法で手に入れて…。
今も捕らえ続けているのに、時折ジリジリとした焦りを感じることがある。
隣で、気を失うように眠りに落ちてしまった彼に視線をめぐらす。
こちらに背をむけているので、表情は見えなかった。
今も捕らえ続けているのに……。
俺は、手にしていたペットボトルを床に投げ捨てた。
この、焦りの正体は………
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子供には両親を選ぶ権利はない。
40才差の夫婦の長男として生まれた俺は、幼い頃から周囲の好奇の目にさらされてきた。
小学生の頃、父が他界して多額の遺産の受取人になった母は、遠縁の親戚を名乗る者たちの扇動によってマスコミからのバッシングにさらされた。
母は気が弱く、誰かに依存しないと生きていられない、そんな人だった。
それだけだったのに…。
当然、俺もいじめや嫌がらせは散々受けた。
孤立していた俺は、一人でボール遊びをすることが多かった。
サッカーボールを思い切り蹴飛ばすのが唯一のストレス解消法だったのだ。
皮肉なことに、そうやって身についたキック力が、周りの奴らを黙らせることに一役買った。
学校の授業でのサッカーの試合。
俺の放ったシュートは、ぼんやり立っていた守備の生徒をかすめて、鋭い弧を描いてゴールの右隅へ突き刺さった。
ゴールキーパーは一歩も動かなかった。皆、怯えたような視線をこちらによこすだけ。
教師が
「お前、サッカークラブに入った方がいいぞ」
毒気をぬかれたような顔をして、そう言った。
その後も孤立していることに変わりはなかったが、少なくとも嫌がらせを受けることはなくなった。
中学校に上がり、俺はサッカー部に入部した。
サッカー部の顧問は、一般教師でありながら前年は全国大会にチームを導いた実績の持主で、俺は充実したサッカーの練習に励んでいた。
和真と初めて話したのはその頃だ。
クラスは同じだったが、それまで話す機会はなかった。
「泉沢、あのさ。泉沢って本当にサッカー上手いね! この前、学校の帰りがけに練習やってるの見てたらさ、スゴイ遠くからシュート決まって、びっくりした」
「…そう」
「うん、ビューン、ズバーーッって。『オオッ』って言っちゃったよ、思わず。すごかったなぁ…」
「ありがとう…」
いきなり話しかけられて驚いたが、身振り手振りを交えて一生懸命感動を伝えようとする姿に、自然と礼を言っていた。
「もし、試合に出るときは教えてよね。応援に行くから」
「ああ」
ところが、サッカー部に入って2ヶ月ほどで、突然顧問が辞めてしまったのだ。顧問だけでなく、教師としても学校から去っていった。
何があったのかは知らない。
問題だったのは、代わりにやってきたコーチだった。
それは、社会人チームでサッカーをしたことがあるという老人で、チームと合流するなり
「スポーツは根性だ。技術や戦略などと生意気な事を言う前に、根性をたたき直さねばならない。指導者には絶対服従。挨拶・敬語を忘れた者は厳罰とする」
そう宣言した。
コーチを連れてきた校長は、コーチの語る根性論に感動して涙をうかべていた。
部員たちの白眼視に気づきもせずに…。
以来、水分補給を禁止した上で何十キロもの長距離走をさせたり、神社の階段をウサギ跳びで何往復もさせるなど、我慢と苦痛を与えることが目的のような練習が続いた。
練習についていけない者を竹刀で殴りつけるのは当たり前、罰として何時間も正座をさせることも珍しくなかった。
さすがに先輩たちが抗議したが、指導者に逆らう者は試合に出さないと言われては、引き下がるしかなかった。
さらに、不満や批判を口にする部員がいたら報告するよう言い渡された。隠したり、かばったりした部員は退部にする、と。
部の雰囲気は悪化した。
俺は次第に、膝に違和感を覚えるようになっていた。
身長も伸び続けていた時期だったので、体に負担がかかっていたのかもしれない。
授業で校内を移動中、階段を上る途中で膝に激痛が走った。
手すりにすがって、痛みをこらえる。脂汗がにじんだ。
怪訝な顔をしつつも、クラスメイトたちは俺を追い抜いて先へ行く。
サッカー部の練習を何日も休めば、間違いなくレギュラーへの道は閉ざされるだろう。
それどころか、退部を言い渡されるかもしれない。
中学の3年間を棒に振るのか?
他に打ち込めるものなんてないのに。
しかし、このまま続けたら、歩くこともままならなくなるかもしれない。
身体を痛めつけるだけの練習に何の意味がある?
なぜ、俺たちはあんな指導者に従わなければならないのか?
あんなゴミムシみたいなヤツ、存在していて許されるのか!?
あんなヤツが、なぜ!
なぜ!!
「泉沢、大丈夫?」
「!?」
後ろから心配そうに声をかけてきたのは、和真だった。
「膝、痛いの?」
「………」
「最近、サッカー部って全然ボール蹴ってないよね。アレでいいのかな…。あ、部外者がこんなこと言って、ウザイと思われるだろうけど、心配でさ」
「………」
「何か、僕にできることないかな。もう一度、泉沢がボール蹴ってるところ、見たいんだよ」
「……。じゃあ」
「ん?」
「じゃあ! あのクソジジイを殺してくれよ!!」
「っ! ……泉沢!?」
「できないなら、黙ってろ!」
八つ当たりだった。
心から心配してくれていることは分かっていたのに。
棒を飲んだように立ちつくす和真を置いて、俺はヨロヨロと教室へ向かった。
一週間ほどたった放課後。俺は和真に呼び出された。
しばらくサッカー部の練習には参加していなかった。
もう辞めても構わない、そんな投げやりな気分だった。
和真に当たったことは後悔していたから、呼び出しに応じた。
和真の父親が経営しているという茶館に行くと、店内はガランとしていて、和真と眼鏡をかけた背の高い男が待っていた。
「ごめんね、ウチに呼び出したりして。えっと、この人は斯波直之さん。母さんのやってる太極拳教室を手伝ってくれてる人」
「…泉沢です」
「初めまして、斯波です。僕は体育大学を出ているんですけれど、和真くんから学校のサッカー部の練習について相談されまして…」
「?」
斯波は、現在のサッカー部の練習メニューを挙げた。
「前時代的かつ無茶苦茶です。現代のトレーニングは、もっと科学的に行われているんですよ。トレーニングの理論は、プロや国の代表選手にだけでなく、大人も子供も…スポーツを楽しむ人全てに等しく共有されるべき情報だと僕は考えます。それで…」
「ちょっ…、ちょっと、待ってくれ」
「はい?」
「俺、トレーニングの内容なんて、仲里には話してない」
「和真くん?」
「……部員のみんなに聞いたから」
「部外者に言うわけが…」
「そうだね。話したくなさそうだったけど、みんなから少しずつなら聞けたから。粘り勝ち?みたいな」
「和真くんは、一度決めると頑固ですからねぇ…」
「はは…」
「それで、話を戻しますが、取り返しのつかない事になる前になんとかした方がいいという結論になりまして。君の足が悪くなりかけてるようだと聞いて、急いだ方がいいだろうと」
「………。助けて…、くれるのか?」
「僕はアシストすることしかできませんが、協力は惜しみません。和真くんの、たっての願いですし」
「ありがとう、斯波さん」
「どういたしまして」
「………」
「とにかく、君らが立ち上がらないと変わりません。聞いた限りでは、個人で何とかするのは難しそうですから、部員全員が一丸となって抵抗すべきです。そのためには、今のままで何がマズイのか、どういう危険があるのか、本来のトレーニングとはどうあるべきか、そういう問題を全員が理解していなければなりません。最悪の場合、コーチには辞めてもらうことも考えにいれて対決しないと勝てないでしょう」
「勝つ…」
「みんなを説得して、協力してもらえれば勝てるんだよ。殺さなくたっていいんだ」
「仲里……」
「和真くん、何言ってるんです?」
「ん? こっちの話」
「………ごめん。俺、あんなヒドイこと言ったのに…」
「僕の方こそ。泉沢がどんな苦しい思いしてるのか知りもしないで…、軽々しく何かしたいなんて言って、ごめんね。それから、足のことだけど、そんなに深刻な状況じゃなければ、回復できるかもしれないって」
「ええ。おそらく、クールダウンがちゃんと出来ていないんだと思いますよ。僕は医者じゃありませんけれど、トレーナーの資格はありますので。とりあえず足を見せてもらって、どうすべきかはそれから考えましょう」
「僕、斯波さんからマッサージの方法習ったんだ。メンテナンスは任せてよ」
「…………」
「泉沢?」
視界が潤んできて、俺は顔を覆った。
「ありがとう。力を貸してくれ、頼む…」
「うん、一緒にがんばろう!」
**********
楽しかったのは、その中学の3年間だけだった。
何が悪いのか分からない。
でも、どういうわけか新しい環境に移るたびに、トラブルがつきまとった。
ねたまれ、根も葉もない噂を立てられ、事故や諍いに巻き込まれる。
スポーツ推薦で高校に入ってからも、プロクラブに入ることになった後も…。
進路こそ順調だったが、歩いていたのは茨の道だった。
彼がいないだけで、こんなにも変わってしまう。
苦しくて、苦しくて…、思い出にすがった。
ただ一度、味方が存在した、あの時の…
今も和真はそばにいる。
部屋に閉じこめている訳ではない。金銭的援助は断られた。生活費以外の金は、自分でアルバイトをして稼いでいる。
それでも、俺のマンションに戻ってくるのは、身体に快楽を覚え込ませて、離れられないようにしているから…。
………、果たしてそうだろうか?
こんなことで、つなぎ止めておけるものだろうか。
和真は、俺に依存され憐れに思って『仕方ないから』付き合ってくれているのではないか?
焦りの正体は、罪悪感。そして、見限られることへの、恐怖…だった。
**********
練習から戻り、自宅マンションの駐車場からエントランスに上がると、出入口の外に和真がいるのが見えた。男と話している。
相手は見知った顔だ。スポーツ新聞や雑誌に記事を書いていて、俺が情報屋のように使っている中年男だった。
2人は親しげで気安い仲に見えた。
俺は駐車場に戻って外へ回った。
和真と別れて歩いてきた男は、俺が立っているのを見てギョッとしたようだった。
「なっ、なんだあんた。帰ってたのか」
「何しに来た」
「何って、別に…」
「何を探ってる? 妙な記事でも書こうと思ってるなら、ただじゃおかない」
「オイオイ。殺人光線でも出そうな目つきで見るなって!」
「………」
「だーかーら。たまたまここを通りかかって…」
「ウソをつくなよ」
「もー、ホントにおっかねぇな。彼、アレだろ。専属トレーナー」
「…何でそれを」
「オレ、肩ほぐしてもらったことあるもん。上手いんだよな。独占しちゃってコノコノ〜〜」
「いつ、どこでそんな」
「怒るなって。いいだろ、友達なんだから」
「友達だと?」
「あんたのとこのチームの試合見てる時にさ。これはホントにたまたまなんだけど、近くに座ってたんだよ、彼。で、試合のことで話が盛り上がって。以来の友達」
「………」
「ホントだって。信じなくてもいいけど。とにかく、あんまり心配かけるなよー」
「心配?」
「体のメンテナンスはできても、心の方は専門外なんだと。自分にできそうなことはみんなやったけど、これ以上何ができるか分からないって、相談されちまったよ、オレ」
「………」
「あんた、引きこもり体質だからな。心が」
「なんだと」
「わっ、殺人光線禁止!」
男は冗談めかして飛びすさり、俺との距離を置いた。
「まずはトレーナーに心を開くんだな。それから、もうちょっと周りもよく見てみろよ。あんたを心配してるのは、彼だけじゃない。オレだって、あんたのことは気にかけてるんだぜ? ちょびっとだけどな。じゃっ」
言い置いて、逃げるように早足で行ってしまった。
「…………」
和真は今でも、俺のことを心配してくれているのだろうか。
何を思って、そばにいてくれるのだろうか……。
聞いたことはなかった。
いや、聞けるはずもなかった。後ろめたくて。
「俺は、本当にバカだな…」
まず、伝えなければならなかったのだ。
大事なんだと。そばにいてくれて嬉しいと。
まだ、間に合うだろうか。
俺はマンションを見上げた。そして、彼の待つ部屋へ歩き出した。
泉沢編END
